芝山公園

エピソード - 芝山巌事件~六士先生の悲劇

台湾の近代教育の礎

台湾の近代教育の基礎は、日本時代に作られた。その日本教育の一番最初のとっかかりを作ったのが六士(六氏)先生と言われる日本人で、楫取道明、関口長太郎、中島長吉、桂金太郎、井原順之助、平井数馬の6人の先生である。この代表格である楫取道明先生は拓殖大学元総長の小田村四郎氏のおじい様(母方の祖父)であり、幕末の勤王の志士、吉田松陰先生の妹、寿子さんの次男でもある。

では「芝山巌事件」とはどういう事件だったのか。

今から120年ほど前、即ち明治27年(1894)8月に始まった日清戦争は日本の勝利に終わり、翌28年(1895)4月には講和条約が締結され、その結果、台湾と澎湖諸島は日本に割譲された。すると早くも6月には、文部省の学務部長心得であった伊沢修二(「紀元節」の歌、その他文部省唱歌を多数作曲)は、台湾に対する諸政策の中で教育こそ最優先すべきを初代台湾総督の樺山資紀に意見具申した。樺山総督は伊沢の意見を早速に採り入れ学務部を創設、その長に伊沢を任じ、日本全国から志をもった7人の優秀な人材を集めた。6月には伊沢ら数名の先発隊が樺山総督とともに台北に到着し、日本語を教える学堂を求めて芝山巌へ下検分に赴いている。芝山巌は、清朝代に私塾が開かれて多くの学士を輩出したことからその名がある士林にあり、その一角にある恵済宮を借り受け7月16日に学堂を開設した。

一方、下関条約締結直後からそれに反対する動きが台湾では起こって、民意を無視して日本に割譲されたことに不満を持つ人々によって「台湾民主国独立宣言」が発せられ、清国正規軍を中心に義勇兵が募集され、その数は5万とも10万ともいわれていた。しかし、6月に北白川宮能久親王の率いる近衛師団がこれの鎮定のために台湾に上陸すると、清国の正規軍はすぐさま本国へ逃走した。しかも清国軍は台湾人へ略奪を働きながら逃げたので、台湾人は一刻も早く日本軍が来てくれることを望んだ。

しかし、地方では、日本の支配に服さない人々が抗日派ゲリラとなって盛んに活動しており、12月になると、坑日派による「台北奪回」がしきりに噂され、芝山巌学堂のある士林でも不穏な空気が流れていた。それでも六士先生たちは学堂に泊まりこみ「身に寸鉄を帯ずして住民の群中に這入らねば、教育の仕事は出来ない。もし我々が国難に殉ずることがあれば、台湾子弟に日本国民としての精神を具体的に宣示できる」と、死をも覚悟して教育にいそしんでいた。

そして、ついに明治29年(1896)正月元旦、運命の日が訪れた。坑日派ゲリラによる襲撃情報は、早くも芝山巌学堂にもたらされ避難することを勧められたが六士先生たちは「死して余榮あり、実に死甲斐あり」と全く意に介せず、台北の拝賀式に向かうため悠々と芝山巌の丘を下った。すると約100名からなる「土匪」とも「義民」とも後に言われる人々の襲撃を受けた。初めは教育の理想を諄々と説く六士先生たちの言葉に、ゲリラの一行は納得し、理解を示したかに見えたが、彼らのうちの一人が槍で襲いかかってきた。そこで止むを得ず白兵戦をもって防ごうとしたが、衆寡敵せず、全員が惨殺された。

今も生きる六士先生の精神

半年後の7月1日、当時の内閣総理大臣伊藤博文の揮毫で、「学務官僚遭難之碑」が芝山巌に建てられ、盛大な慰霊祭が行われた。昭和5年(1930)には六士先生を祀る芝山巌神社が建てられ、以降この神社には台湾教育に殉じた日本人と台湾人の教育者が祀られるようになる。まさに芝山巌神社は"教育者の靖國神社"であり今でも教育に関わった人々の間で"台湾教育の聖地"と称されている。

故に身に寸鉄を帯びずして、土民の群中にも這入らねば

六士先生の難を知った伊澤は悲嘆にくれたが、今日のように簡単に台湾へ戻れる時代ではない。やむなく日本で第1回講習員募集の任務を続けた。伊澤が台湾での教員募集の計画を新聞で発表すると、大きな反響があり800名もの応募があった。しかし芝山巌事件の悲報に朝野は大きな衝撃を受け、500人もの辞退者が出た。2月11日講演で伊澤は六士遭難について次のように語った。

「さて斯く斃れた人々の為には実に悲しみに堪えませんが、此から後ち台湾に行って、即ち新領土に行って教育する人は、この度斃れた人と同じ覚悟を以て貰わねばならぬと信じて居ります。如何となれば、若しや教育者と云ふものが、他の官吏の如きものであるならば、何の危ない地に踏み込むことがござりませう。城の中に居れば宣(よ)い話しである。然るに教育と云ふものは、人の心の底に這入らねばならぬものですから、決して役所の中で人民を呼び付ける様にして、教育を仕やうと思つて出来るものではない。故に身に寸鉄を帯びずして、土民の群中にも這入らねば、教育の仕事と云ふもの出来ませぬ。此の如くして、始めて人の心の底に立入る事が出来やうと思います。」

この事件の前から伊澤は次のような発言をしていた。

「台湾の教化は武力の及ぶ所ではなく、教育者が万斛(ばんこく=甚だ多い)の精神を費やし、数千のの骨を埋めて始めてその実効を奏すことができる。」

この言葉に示された教育者の在り方を、台湾では「芝山巌精神」と呼ぶようになった。後に芝山巌神社が創設され、台湾教育に殉じた日本人と台湾人教育者が祀られた。昭和8年(1933)の時点では330人が祀られ、そのうち24人が台湾人教育者であった。

母との今生の別れ

伊澤が台湾での教員募集の計画を新聞で発表すると、大きな反響があった。一次試験は各県の郡役所で行なわれ、その合格者を東京で伊澤自身が面接して、45名を採用した。

その一人に京都府舞鶴近くで小学校校長をしていた坂根十二郎がいた。坂根は22日午後10時に二次試験の知らせを電報で受け取り、京都駅まで25里を歩き、そこから汽車で上京する。

試験日の25日に着くには翌朝に出発しなければならないのだ。学校関係者には書置きをし、郡長を深夜に訪れて許可を得、それから家に帰って母に許しを乞うた。母は神棚から守り札を出し、これを肌身につけて「神明の加護によりて息災延命なれ」と言った。70歳を過ぎた母とは今生の別れになると思うと、涙が止まらなかった。

親戚一同とも別れの杯を交わして23日未明に出発、夜11時に京都駅に着いて夜行汽車で上京、24日午前11時に新橋駅に到着。25日に二次試験があり、その翌日、合格発表があった。

伊澤は芝山巌事件を詳しく説明して、心配な者は取り止めても差し支えない、それでもなお進んでゆくことを希望する者は申し出るように言うと、合格者45名全員が台湾行きを希望して、伊澤を感激させた。

この時、坂根十二郎はすでに小学校長の身で、生活のためならば、わざわざ母親と永久の別れをしてまで危険な任地に赴く必要はなかったはずだ。その動機として、学校関係者に残した書置きには次のように述べている。

「台湾島新附民を教育すべく、之が教員を募集せらるるに会す、せめてはその末席に加わり以て奉公の万一を尽くさん事を期せんとす。」

新領土・台湾の地に近代教育を広めて、その「新附の民」を等しく日本国民として迎え入れようとすることは、当時の国家的大事業だった。その一端を担おうという「奉公」の精神が坂根らを動かしていた。

伊澤に連れられた第一回講習員45名は、4月11日に芝山巌に着く。2ヶ月半あまり、伊澤の教えた台湾人生徒らについて台湾語を習い、ほぼ日常会話が出来る程度に上達した。7月1日、卒業式の後、講習員は台湾各地に設立される14ヶ所の国語伝習所に発っていった。ここで日本語をまったく知らない台湾人の子弟を台湾語で教えるのだ。

坂根十二郎は台南国語伝習所の教諭となる。10月7日、開所式、甲科生50名は年齢20歳以上で、通訳、公官吏を養成する目的で毎日25銭を支給していた。乙科生60名は7歳以上、今日の公学校教育と同じだが、毎日10銭を支給することで定員を満たした。当時は1銭で大きな餅が3個も買えたと言われている。

一方、教員・職員たちは8畳間に5人で生活するという節約ぶりで、限られた予算を生徒の手当てに回してまで教育をひろめようとしていたのだ。

このような各地の国語伝習所が公学校に発展していった。今日の台湾の伝統校の初代校長は、坂根のような講習員が多いという。伊澤や坂根らの熱誠あふれる教育者精神は、師に対する礼に厚い台湾人の伝統と相俟って、各地で美しい子弟愛を咲かせていった。

国語伝習所に配属された第1回講習員の経歴

(文章:五郎丸浩/第19次結団式)

お問い合わせお問合せ