許文龍先生

エピソード - 許文龍先生 ~ 日本人よ 自信を取り戻せ

私はかつて日本人であったことに誇りをもっている

奇美実業の創始者である許文龍先生は、日本統治時代の昭和3年(1928)に台南市に生まれる。戦前の台南高等工業学校附属工業学校、および戦後の台湾省立台南高級工業学校機械科を卒業。しばらく町工場で働くが、間もなく自立。故郷の台南で玩具日用雑貨の製造を始め、台湾のトップになる。昭和34年(1959)に奇美実業を設立、同社を家電や自動車部品の原料であるABS樹脂(アクリロニトリル・ブタジエン・スチレン)で世界最大のメーカーに育てあげた。早くから所有と経営を分離する一方、週休2日制を昭和53年(1978)に台湾で一番早く実施したばかりでなく、昭和55年(1980)には社員のボーナスに自社の株を付け加え社員持株制を導入した。

李登輝と親しく平成8年(1996)から4年間、総統府国策顧問を務めた他、平成12年(2000)から6年間総統府資政を務め、陳水扁総統の相談役として活躍した。

日本に対しては、かつて日本人としての教育を受け、自分は日本人であることに誇りを持ち続け、「台湾の基礎の殆どは日本統治時代に完成したもの」「日本人が来てまず治安が一挙に良くなり、衛生状態も良くなった」「守る法ができ、税金も清朝時代に較べてかなり良くなった」と日本による植民地統治を全否定、満州国統治も同様に評価している。また、慰安婦の強制連行を否定する発言等も行なっている。そのため、中国反日勢力から「日本の植民地統治を美化している」として批判を浴びせられることも多く、中共が、大陸に進出した奇美実業に圧力をかけ、平成17年(2005)には「台湾と中国は1つの中国に属している。台湾の独立は支持しない。反国家分裂法を支持する」などといった、事実上「1つの中国」を主張する中国政府の政治原則に同調する書簡を公表させられる事件も起こった。

また、世界的に価値のある美術品を収蔵する奇美博物館のオーナーでもある。この美術館を建設した動機について許文龍先生は、「日本時代、台南に日本が造った博物館があり、無料で見せてくれたので、いつも通っていました。そこへ通った思い出が忘れられない」と語っていた。

平成29年(2017)4月に中華統一促進党の党員によって烏山頭ダムにある八田與一の銅像から首が切断されたが、許文龍先生がレプリカを製作・所持しており、すぐにそれを提供しての修復が行なわれ、八田の命日である5月8日の慰霊祭開催に間に合わせた。

慰霊団では、第4次訪問で許文龍先生にお会いし、歓迎昼食会を開催していただき、食後は地下のホールでの音楽会に案内され、先生自ら「荒城の月」「旅愁」など日本の曲をマンドリンで演奏して私たちを歓迎して下さった。

(文章:五郎丸浩/第20次結団式)

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