高砂義勇隊戦没英霊紀念碑

エピソード - 高砂義勇隊戦没英霊記念碑

殺到した志願者

台北の南東28キロの山間にある烏来は高砂族(先住民)の一部族、タイヤル族の村で、台湾北部有数の観光地だ。「ウライ」とはタイヤル語で「温泉」を意味する通り、温泉宿が点在する。名物のトロッコに乗って奥に進めば、台湾最大級の瀑布「白糸の滝」や「タイヤル文化村」、山や滝を一望できるロープウェーなどがある。その高台に瀑布を見下ろす公園があり、その一角に「高砂義勇隊戦没英霊記念碑」がある。

高砂義勇隊とは大東亜戦争中に日本軍兵士として戦った高砂族の部隊である。身分は軍属(軍夫)で、主に後方支援を任務としていたが、その奮戦ぶりは敵のみならず味方の度肝を抜き、おそらく当時の近代的軍隊の中で、彼らは世界で最強の兵士だった。

開戦直後の昭和17年(1942)1月、日本の第14軍(台湾軍を中心に編成)はフィリピンのバターン要塞の攻略を期したが、未踏のジャングルと険しい山岳に阻まれ、第1次攻略は中止を余儀なくされた。そこで考案されたのが、こうした自然環境を熟知する高砂族の投入である。軍の要請を受けた台湾総督府が従軍者の募集を発表すると「志願しなければ男ではない」と沸き立ち、たちまち老若あわせて5千名が応募に殺到した。彼らは手に先祖伝来の蕃刀を提げ、中には血書や血判の志願書を持参する者も少なくなかった。

彼らの働きぶりには誰もが驚嘆した。その人間業とは思えない敏捷さ、獣のような視聴覚と方向感覚、狩猟で培った射撃の神業、そしてたちまちに森を切り拓く「義勇刀」等々、正に無敵という他なかった。あわせて、軍規の厳正さは正規軍を凌ぎ、自己犠牲の精神は戦友の胸を強く打った。

高砂義勇隊の派遣は7回あり、昭和19年からは「高砂特別志願兵」として従軍した。

念願の慰霊祭

終戦で日本へ送還される戦友たちと涙で別れ、上陸した故郷台湾はすでに旧敵国(中華民國)の支配下だった。出征の時は軍歌と歓呼の旗波に見送られた彼らだったが、そこでは出迎えのものもなく、あたかも逃げ隠れするような惨めな思いで帰路についたという。

日本軍への協力者として、高砂義勇隊兵士の慰霊や顕彰は戦後久しく憚られてきた。しかし、近年の思想的引き締めの緩和を受け、念願の戦没兵士の慰霊祭を行うために建立されたのが、この記念碑である。

この碑には勇猛果敢な「民族精神」を後世に伝え、同時にその優秀さを世界に知らせようとの希いがこめられている。

台湾高砂聯誼会の周麗梅さんは、高砂兵士への尊敬の一念で、やっとの思いでこの碑を完成させた功労者だ。しかし、彼女の死後、この碑も存続の危機にみまわれ、地元の方々や多くの日本人の尽力により、現在の地に移された。一時、中共の日台離間工作で碑は覆い隠されていたが、その後、取り外された。

現在は、保存委員会を中心に周麗梅さんの長男の邱克平氏らが、当時を知る者の道義的使命として、経済的苦境に立たされながらも、精一杯その維持と管理に当たっている。

倒木と落石に埋まる義勇兵銅像

平成27年(2015)8月8日、台風13号が台湾を襲い、各地で甚大な被害が出た。その中でも烏來の被害は特に甚大で、土砂崩れで道路は寸断され、軍や消防、日本のNGOが出動するほどであった。碑の前にあった鎮魂の鐘は無事であったが、慰霊碑は完全に土砂で埋まり、慰霊碑の上にあった高砂義勇兵の銅像も無残に転がり、倒木と落石に埋もれてしまった。

平成29年(2017)8月、2年振りにトロッコ列車が再開し、烏來瀑布まで行けるようになった。しかし、高砂義勇隊戦没英霊記念碑への道は未だ整備されず不通のままである。少しづつ工事は行なわれているが、修復にはまだまだ時間が掛かるようである。1日も早い復興が望まれる。

(文章:五郎丸浩/第20次結団式)

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