忠烈祠(臺北)

エピソード - 忠烈祠と山田良政

忠烈祠

日本時代には、現在の圓山大飯店のある場所に「台湾神宮」が鎮座し、その北東に戦死者を祀る台湾護國神社があった。その護國神社跡に忠烈祠が建立されている。

本殿は北京の大和殿を模し、中華民國(國民党政府)のための戦死者33万人の将兵が祀られている。将兵の霊を祀った廟なので、陸・海・空の三軍と陸戦隊の儀仗兵が3ヶ月交代で衛兵に立ち、毎日1時間毎に交代式が行われる。

日本でいえば靖國神社に相当するが軍が管理し、中国的宗教方式で祀られている。しかし、ここは中華民國國民党政権のために戦死した人々を祀る廟だから、中共軍の戦死者や、日本軍に志願して戦死した台湾の人々は祀られていない。日本軍人として戦死した台湾の人々は、日本の靖國神社に祀られている。そこで、日本軍を志願した台湾戦友会の手によって、3万3千余柱の戦死者は台中市の宝覚寺に「英魂観音亭」を建立して祀るようになった。

思えば、ここに祀られた英霊の中には、日本軍と戦って戦死した人々が多い。いわば日本にとっては敵の戦死者である。敵国軍人といえども、彼らは祖国に忠誠を尽くしたのである。戦いが終われば昨日の敵は今日の友である。恨みに報ゆるに徳を以ってする態度をもって、敬虔なる黙祷を捧げたいものである。

山田良政

ところが、この忠烈祠に、日本人が唯1人祀られている。それは孫文の革命運動に参加し、恵州起義(1900)で戦死した山田良政である。

山田良政は明治元年(1868)、弘前に生まれた。東奥義塾から青森師範学校に入ったが、中退し東京水産学校第1期生として優秀な成績で卒業している。その後、北海道昆布会社に就職したが、上海支店に転勤となり、中国との縁が結ばれた。日清戦争では陸軍通訳として活躍。戦後は海軍省嘱託として、当時、清朝の大改革(変法自彊)に失敗した康有為、王照などを軍艦「大島」に乗せて、日本に亡命させている。

彼が孫文と初めて会談したのは、明治32年(1899)の7月、東京の神田三崎町の津軽の学生寮だった。この時、良政は孫文と支那の国政改革について談論して以来、深く孫文の革命主義に共鳴するようになったといわれている。

翌年、近衛篤麿公を中心として東亜同文会が結成され、中国の地(南京、後に上海)に東亜同文書院が創立され、良政は同校の教授兼幹事として赴任した。

ちょうどその頃、北支では義和団事件が勃発し、北京もその手中に落ちたため、連合軍は兵を連ねて北京に迫ったが、光緒帝と西太后らは西安の地に逃亡してしまった。良政と親しかった唐才常は「チャンス到来」と武漢方面で滅満興漢の兵を挙げたが失敗し、殺害された。

ここにおいて良政は一大決心のもとに東亜同文書院を退職し、明治33年(1900)10月、孫文らとともに広東省の恵州で兵を挙げた。だが良政は捕らえられ、殺害されてしまった。時に33歳であった。

(文章:五郎丸浩/第20次結団式)

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