安平古堡(紅毛城)

エピソード - 安平古堡 ~ オランダ人を一掃した鄭成功

台湾の歴史は安平から始まる

エキゾチックな街として知られる古都台南。16世紀の初め、大陸から移住してきた漢民族によってその歴史が開かれ、明治18年(1885)に台北市に首都が移されるまでの約220年間、台湾の中心として栄えてきた。台南の安平地区は台湾で最も早く開かれた街で「台湾の歴史は安平から始まる」とも言われている。その原点となるのが安平古堡、別名ゼーランジャ城である。

海辺に17世紀のオランダ人が築いた城の跡が残っている。安平古堡は1624年オランダ人が植民地支配の拠点として築いた台湾で一番古い城砦で「ゼーランジャ城」とお呼ばれていたが、1661年にオランダ人を一掃した鄭成功が、故郷の安平にちなんで「安平鎮城」と命名。大東亜戦争後に「安平古堡」と改名し、僅かに残っていた城壁が保存されることになった。城塁は、断崖のないこの地に、人工の断崖として造られ、材料は赤レンガである。色褪せてまだらとなった赤レンガの城壁にガジュマルの枝がからみつき、統治者が変わる度に破壊と修復が繰り返された安平の歴史を物語っている。

オランダは17世紀の栄光の時代の最盛期に台湾にやって来て、衰退がはじまる頃に台湾を去った。ゼーランジャ城は、その時期の象徴なのである。現在は、全体としてよく修復されており、修復がよすぎて遊園地の一部という観がないでもない。望楼も空港の管制塔みたいに見える。しかし、敷地北西側に残る城壁は、漆喰は半ば剥げ落ち、熱帯植物がからまり、太い根の束を城壁にそって垂らしていて、見事な古蹟といっていい。望楼からは安平開臺天后宮、台南運河、安平港が見える。

エピソード - 鄭成功 ~ 台湾中興の祖

日本人を母とする「台湾中興の祖」鄭成功

鄭成功を知るには、まず父親の鄭芝龍のことを知らなければならない。鄭芝龍は福建の泉州の生まれで、業は商家であった。幼少より秀才の誉れ高く、ずばぬけた体力と武芸を身に付け“泉州の麒麟児”の名を欲しいままにしていたという。

鄭芝龍は18歳で父を亡くした後、日本に渡った。彼は自らを平戸老一官と称して当時の松浦藩主・松浦隆信の寵愛を受け、平戸の住人、田川氏の17歳になる娘マツを見初めて2子をもうける。寛永元年(1624)7月14日に生れた長男福松が、後の鄭成功である。鄭成功は、7歳まで平戸の地で過ごしている。

その後再び南海へと向かった父芝龍は、途中、海賊の顔思斉に捕えられるが、その才覚が認められ、ともに行動をするようになった。顔思斉の死後は鄭芝龍がこの一党を率い、東アジア海域随一の実力を備える海賊へと変身した。そしてその勢力と莫大な資金力に目をつけたのが、存亡の危機にあった明王朝であった。明朝は清の勃興により、極度に勢力が衰えていた。そこで、華南全域に覇権を振るっていた鄭芝龍一派に復明再興の望みを託し、彼らを招いたのだった。

寛永5年(1628)、明朝に仕えた鄭芝龍は「海防遊撃」という官位を拝し、尽力することになる。落ち着いた頃、平戸より妻と子を呼び寄せた。

ここからいよいよ鄭成功の活躍が始まる。福松は名を中国風の鄭森(ていしん)と改め、弱冠14歳にして科挙の地方試験に合格し、中央で最高位の科挙試験を受験できる「秀才」の号を得ていた。21歳の時に明王隆武帝に拝謁を許される。隆武帝は、忠臣鄭芝龍の息子を親しく召され、一目で福松の才を見抜き、「朕に娘があれば、そなたに嫁がせるのだが」と言ったと伝えられている。

そして、隆武帝の姓、つまり国姓である朱を賜わり、名も成功と名乗ることを許された。皇帝より賜わったその名より、彼が「国姓爺(こくせんや)」と呼ばれる所以である。しかし、鄭成功は「朱」姓を賜わったものの、畏れ多くて自分では名乗らなかった。世の人は彼を尊称して「国姓爺」と呼び、近松門左衛門の戯曲「国姓爺合戦」の題名は、このことに由来している。

拝謁を機に、鄭成功は明王朝に対する忠誠を新たにし、「明室復興」の姿勢を、幼少の頃培った剣の道を通じて育んだ日本の武士道の精紳の上に芽生えさせた。しかし、清が本格的に動きはじめると、父芝龍はあっけなくその軍門に降っていった。この芝龍の行為を恥じた妻マツは自らその命を絶って、鄭成功に明朝への忠誠を誓わせた。また芝龍の内報により隆武帝は捕えられた。

悲憤慷慨した鄭成功は、孔子廟で儒服を焼き「滅清復明」を誓う。鄭成功が日本に乞師(きっし/軍事、補給のための応援を頼むこと)として朱舜水らを何度か派遣したのもこの頃である。一進一退を繰り返しつつ、力を蓄えていった鄭成功は、復讐に燃え、金陵(南京)攻略戦に17万5千の兵力と300艘もの大艦隊で決戦を挑んだ。その中には、乞師による派兵ではない日本武士が傭兵として参戦していたとも言われる。それは「鉄人」と呼ばれた重装歩兵部隊と「倭銃隊」という日本製の小銃で武装した兵団で、清軍に大打撃を与えたという。しかし、清の援軍が到着すると、鄭成功軍は足並みを乱され撤退した。

そこで鄭成功は、軍の建て直しと再度攻撃の機会をうかがうため、2万余の兵力とともにその足を台湾へ向けた。

この時、台湾はすでにオランダの支配下にあった。時代は大航海時代の真只中で、西ヨーロッパ諸国は競って未知の世界への探検、植民、貿易、布教活動に勢力を注ぎ、世界地図を大きく変えていた。ポルトガルやスペインより遅れてアジアに進出したオランダは、東アジア貿易ルートの確保のためにも台湾の領有は絶対に欠かせないところであった。

寛永元年(1624)8月、台湾に上陸したオランダ軍は、ただちにゼーランジャ城とプロビンシャ城という、要塞ともいうべき堅固な砦を築き、同時期に台湾北部に進出していたスペインを駆逐し、台湾を根拠とした植民地経営の確立にますます意欲的になっていた。

当時の技術の粋を駆使して造られたこの2つの砦を陥とすことは、百戦練磨の鄭軍といえども容易なことではなかった。しかし、かつて父芝龍の部下であった何斌(かひん)のもたらしたオランダ支配下の台湾の地図は、鄭成功に一条の光を与えた。先ず、手薄であった澎湖島に上陸し、プロビンシャ城を陥落、次いでゼーランジャ城を陥としたのだった。この戦いでは、大陸からの移住民をはじめとする台湾の民衆が大いに協力し、首尾よく戦局を好転させた。このことは、いかにオランダの政策が過酷であったかを物語っている。

寛文元年(1661)12月13日、オランダは台湾から撤退していった。寛永元年(1624)以来、38年間続いたオランダ人による台湾統治の終焉である。

鄭成功は、陥落させたゼーランジャ城を「安平鎮」とし、プロビンシャ城を「承天府」と改称させ、「大陸反攻」の時運を待つため、本格的な行政整備をはじめた。「承天府」は現在、台南駅から西に徒歩で10分の所に「赤嵌楼(せきかんろう)」として残っており、内部には鄭成功のブロンズ像をはじめ、数々の遺品が展示されている。

また、台湾上陸によって、急激に増加した人口の食料事情を是正するために、鄭成功は屯田制を奨励し、未開地を開墾させることで土地の私有を認め、移住民の生活を安定させる経済基盤づくりを奨励した。鄭成功が「開山王」と称される所以はここにある。

さらに、厳しい官僚機構と徹底した法治主義を貫く政策をすすめ、南部の蕃社と呼ばれた先住民についても懐柔策でのぞみ、地盤固めに邁進した。一方では「明室再興」の機会をうかがい、台湾とフィリピンをまとめて南海強国をつくり、反攻を策していた。しかし、突然病を発し、寛文2年(1662)、台湾攻略の翌年の5月8日、この世を去った。39歳の若さであった。

(文章:五郎丸浩/第20次結団式)

お問い合わせお問合せ