新竹市眷村属博物館

エピソード - 新竹市眷村属博物館

国共内戦時に大陸から渡ってきた国民党軍人の住宅

「眷村(けんそん)」とは村の名前ではなく、一般的に国共内戦時に大陸から渡ってきた軍人のために提供された住宅(部落)のことを指します。住宅の質は劣悪なものから立派なものまで様々なようです。国民党政府が台湾に撤退した直後は、木や竹にワラと泥を塗りつけた風雨がしのげるだけの掘っ立て小屋も少なくなかったようです。当時、国民党は「3年で大陸反攻、4年で共産党一掃」というスローガンを掲げ、大陸に攻め帰れると本気で思い、仮住まいとなる場さえ確保できればと考えていました。

そもそも眷村が台湾に建てられた背景は国共内戦で敗れた国民党関係者の住居の確保でした。当時の台湾の人口が1000万人に満たないと言われ、200万人ほどの国民党関係者が流入しました。国民党幹部の一部は台湾から引き揚げた日本人の家屋に移り住みましたが、圧倒的多数の兵士やその家族には住む場所がありません。そのために建てられたのが眷村です。眷村は主に都市部や大陸と向かい合う台湾海峡側の軍事基地となる地域に集中して建てられました。そのため空軍基地のある新竹、桃園等に多くの眷村があり、南部では高雄の左營地区が有名です。

眷村に対する台湾の人々の思いには複雑なものがあると聞きます。国民党が台湾に撤退する前から台湾に住んでいた人にしてみれば「敗者として逃げてきたものが、主人のような顔をして勝手に土地に住宅を建てはじめた。眷村はそういう者が住む部落だ」という思いを抱く人も多くいました。一方、眷村に住む者にしてみれば「国家や党のために戦い、異郷の地、台湾に渡ってきた苦労を考えれば、政府による住宅提供は当然」という思いがありました。当時の若い兵士には家族と別れ、一人で台湾に渡ってきたものも多く、彼等には特にそういう気持が強かったのかも知れません。(ちなみに大陸への親族訪問が解禁されたのは国民党が台湾に撤退して38年後のことです)

眷村には、眷村育ちにしかわかりあえない独特の文化があると言われます。彼らは本当の意味で台湾社会に同化できず、中国人意識が強く、中国といってもそれは現在の中華人民共和国ではなく、中華民國という思いがあります。しかし、眷村の中だけが自分(または祖父母や父母)の故郷につながる唯一の場所だという気持があるようです。

こういった感情や政治的背景とは別に、眷村は台湾の中の一つの文化であり、歴史の一部であることは間違いありません。また眷村の中には大陸から持ち込まれた貴重な文物も多数あります。

新竹市眷村属博物館は、多様な台湾社会の中の一つの文化、ならびに歴史として眷村を紹介、保存する目的で設立されました。

(文章:五郎丸浩)

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