西郷廳憲徳政碑

西郷廳憲徳政碑(管理事務所)

エピソード - 西郷隆盛の子・菊次郎の「郡守徳政碑」

西郷隆盛の子・菊次郎

日本統治時代、宜蘭の民衆は初任郡守西郷菊次郎の善政を記念して、宜蘭平野に「西郷庁憲徳政碑」を建立した。当時、この碑は宜蘭河の中山橋西畔にあった。しかし、終戦後、河岸一帯の公用地は大陸から台湾へ来た軍人家族に占拠され、河岸に沿った道路横に違法家屋が建てられ、この碑は台座と共に包み込まれて石垣の一部となってしまった。それから数十年も眠ったままで、顧みる人もなくなっていた。

その後、台湾省水利局が宜蘭河沿岸の整備のため、不法建築を一掃したところ、この石碑が発見された。同碑は、外観も碑文もほぼ完全に近い形で残っていた。それは幸いにも不法建築によって風雨に曝されず、風化がくい止められたからだ。不法家屋撤去の際、台座が多少破損しただけである。

碑文によれば、この碑は明治38年(1905)に宜蘭地方の有志が建設したもので、初任郡守だった西郷菊次郎の治政を高く称えている。特に、宜蘭河の治水工事が効を奏して水害を杜絶した西郷の功績を記念するために建立したとある。

西郷菊次郎は明治維新の元勲、西郷隆盛が奄美大島に配流された折、愛加那との間に設けた子供である。菊次郎は12歳にして農業修業のため内閣より命を受け米国留学する。西南の役では父とともに戦うも、父の命に従い官軍に下り、被弾した右脚の膝から下を切断している。

明治28年(1895)4月、台湾が日本に割譲されると、台湾総督府より参事官心得を命ぜられ、樺山台湾総督らと横浜丸で台湾に向かい、その後、澎湖列島行政庁附を振り出しに、台南県安平庁長心得、台北県支庁長、台北県基隆支庁長に任ぜられ、明治30年(1897)5月27日、宜蘭庁長に任ぜられた。

西郷廰憲徳政碑

「西郷廳憲徳政碑」の碑文には、西郷郡守は宜蘭河に3万9千余円(当時、これくらいで学校ひとつが建った)もの巨費を費し1660メートルに及ぶ河床を強固にするために苦心奔走した、とある。第1期工事は明治33年(1900)4月から34年(1901)9月。その後、大正15年(1926)まで第2期工事が行なわれ、総延長は3740メートルに及んでいる。この難工事に従事した延べ約74万人の民衆はその恩沢に感激してこの碑を建ててその徳政を称賛したという。同時にそのことは、当時の宜蘭河が年々氾濫することにより、いかに宜蘭民衆が苦しんでいたかを物語っている。

今、“台湾の宝庫”と言われる平野は、第1に9万8千ヘクタールの嘉南平野で、八田與一の功績による。しかし、第2の平野である蘭陽平野を流れる宜蘭河の治水工事は、烏山頭ダムよりずっと以前の明治30年代のことだ。この西郷菊次郎郡守の苦心により宜蘭の人々は災害から救われたのである。そして、この「西郷廳憲徳政碑」を感激をもって建てたのである。嘉南平野と、八田與一は広く知られているが、西郷菊次郎のことは殆ど知られていない。いかにして日本時代の石碑を保存し、いかにその歴史を研究するかは急務である。

「政治は政治に、歴史は歴史に帰せよ」という。日本時代の石碑を保護するのは史実の廓清にも役立つ。その歴史的価値に着目するなら、「西郷庁憲徳政碑」こそ有益な資料であり、教材としても最適である。「碑文そのものが即ち重要な資料と史跡である。外国統治の時代だからといって、わざとその遺蹟を破壊するのは大変な間違いである」と専門家は保存の大切さを訴えている。

(文章:五郎丸浩/第20次結団式)

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