第20次 東龍宮 祭文
日華(台)親善友好慰霊訪問団を代表し、田中綱常将軍の御霊の御前にて慎んで祭文を奏上いたします。
田中綱常将軍が台湾とご縁が結ばれるに至った契機は、明治4年10月の琉球島民の八瑤湾漂着でした。後に言われる牡丹社事件です。漂着民66名中54名が殺害されました。
田中は明治6年、樺山資紀陸軍少佐のもとで陸軍歩兵第十七番大隊長(陸軍大尉)の任に就き、視察員として台湾に派遣されます。明治7年2月には、台湾地形調査のため再度台湾へ渡航。5月には谷干城に随同、3度目の台湾でした。その後も集中して台湾を訪れ、牡丹社事件の後処理に尽力し、戦死した軍人軍属の遺骨を長崎へ移送、安置所と招魂社の建立を行ないこの事件に一応の区切りをつけました。田中は牡丹社事件の処理の最初から最後まで、その中心で活躍したのです。
明治28年4月、台湾は、朝鮮半島の帰属を巡って戦われた日清戦争の結果、わが国・日本に割譲されました。しかし、それより24年も前にこの地・屏東はわが国とご縁が開始されていたのです。件の田中は、台湾割譲後直に澎湖諸島行政長官、台北県知事に任命され、明治29年には台湾総督府民政局事務官となります。
明治23年、明治天皇はエルトゥールル号の遭難者六十九名を軍艦「比叡」および「金剛」でトルコまで送還させ、時のオスマン朝皇帝に謁見しています。このことを知る人は多いが、その「比叡」の艦長が田中であったことはあまり知られていません。そのような中で、私たちが忘れてはならないことは、田中綱常がここ枋寮の地で田中将軍となり、或いは田中元帥と称され、石宮主により廟が開かれ、世を治め民を教化し、台湾の民衆のために災いを治め、厄を解き、願いを成就させる「神」として祀られていることです。
東龍宮の門聯(もんれん)に掲げられる言葉には田中の文字を最初の文字として嵌め込み「神としての威厳は凛然とした正気に由来し、国家社会のために忠を尽くし職を守る 内にある徳行は自らの霊(みたま)を人々の間に降ろし、民衆の生を潤す」とあります。そして田中は、石羅界宮主を介して再び台湾とのご縁を深くしているのです。
石宮主は、神の声に従い、資料の調査へと進み、田中綱常が実在した人であることを知り、その故郷を訪ね、埋葬地を訪れ、子孫を探すことに尽力し、ついに4代目子孫との運命的邂逅を果たします。また北川直征伍長の墓も探しあてます。そして昨年4月には、田中家、北川家の両家族がここ東龍宮を参拝しました。何と145年の歳月を経て、再び「生命の絆」が繋がれたのです。
私たちは、平成11年以来、台湾における原台湾人元日本兵軍人軍属戦没者、ならびに台湾各地に祀られる日本人の御霊の安らかならんことをお祈りしてまいりました。
半世紀に及ぶ日本統治が戦後73年の今日に至るまで脈々と生き続ける台湾。この「生命の絆」を守り育て後に続く人に正しく継承していくことが、先達から託された崇高な使命です。私たちはこの務めの中に日台同胞の鎮魂をしっかりと位置づけ、今日の私たち日本人が民族としての自覚にめざめ誇りを高めていく契機にしていく所存です。
今後も、この顕彰事業を風化させることなく、更に充実・拡大し、「日台の魂の交流事業」として次世代に継承していきます。それはこの道こそが「護国の防人として散華された日台同胞の英霊」にお応えする務めであるからです。
以上の決意も新たに、わが国の近代史に比類なき勇気と献身を刻まれた英霊のご遺徳を偲び、御霊の平安を心より祈念し、慰霊の言葉といたします。
日台の生命の絆 死守せむと
吾 日本の一角に起つ
平成30年11月24日
民國107年
皇紀2678年
日華(台)親善友好慰霊訪問団
団長 小菅 亥三郎