第19次 富安宮 祭文

日華(台)親善友好慰霊訪問団を代表し、義愛公・森川清次郎巡査の御霊の御前にて謹んで祭文を奏上いたします。

台湾嘉義縣東石郷にひとりの日本人が奉祀されています。神様の名は「義愛公」。かつて日本人警察官であった森川清次郎です。後世にまで愛される人は生前に人を愛した人です。愛に国籍はなく、誠の愛は天地に時空を越えて息づいています。

森川は明治30年、37歳のときに巡査として台湾に渡りました。森川が赴任したころの台湾は日本統治が始まった直後のことで、社会基盤も未整備で治安は悪く、総督府の綱紀も緩みがちで汚職も絶えなかった時代でした。

そうした中、森川は村内の治安維持に努める一方、教育の必要性を痛感し、着任間も無く派出所の隣に寺子屋を設けました。当時、正規の学校はまだ無く、日本から教科書を取り寄せ、子供たちのみならず、大人たちにも日本語の読み書きを教えました。もちろん手弁当でした。また、朝早くから夕方まで田畑に出て、どうすれば生産が上がるのか、村民とともに汗を流し、実地に指導し、病人が出るとすぐに飛んで行き、薬から医者の手配までするなど、村民の生活や福祉の向上に一途で、犠牲的精神で臨んでいました。そんな森川を村民も「大人、大人」と尊敬していました。

台湾の警察官の任務には本来の職務のほか、総督府を支えるため様々な仕事がありました。徴税もそのひとつでした。ある年、総督府は漁業税を制定しました。漁業が重要な副瀬の村にも、例外なく厳しい税金が課せられました。しかし、貧しい村のこと、納税は免れぬとしても、その軽減をお願いできないかと村民は衆議一致で、尊敬する森川巡査に嘆願しました。

「納税は義務であり、なんとも仕方ない。しかし、生活が極めて苦しい実情をみると忍びない。税金の軽減については、その意を上司に伝える」と約束し、直ぐに税の免減を支庁に嘆願しました。しかし、森川巡査が村民を煽動して事を荒立てていると曲解した支庁長は、実態調査もせずに門前払いの挙句、森川巡査を懲戒処分にしてしまいます。村民のためを思い尽力してきた彼にとって、この懲戒は無念やる方なく、明治35年4月に村内を見回った後、自ら村田銃の引き金をひき抗議の自決を果たしました。

その後、周辺の村々で伝染病が流行し村民の不安が高まったある夜、村長の枕元に制服姿の警察官が立ち、伝染病対策を告げて消え去りました。村長は夢枕に現れた制服姿こそ森川清次郎その人だと、早速、村民にその対策方法を実行させました。そのお陰で伝染病は広がらず、村は落ち着きを取り戻しました。村民たちは、生前はもちろん死後に至るも慈愛溢れる愛情を注いでくれる森川巡査の義と徳を追慕するため制服姿の像を作り、「義愛公」の尊称を奉り、ご神体として富安宮にお祀りしました。

森川清次郎巡査と副瀬の村に纏わるこの故事は私たちに、現代人が失った人としての矜持と、人生意気に感ずる時代を思い出させてくれます。

私たちは、平成11年以来、台湾における原台湾人元日本兵軍人軍属戦没者、ならびに台湾各地に祀られる日本人の御霊の安らかならんことをお祈りしてまいりました。

半世紀に及ぶ日本統治が戦後72年の今日に至るまで脈々と生き続ける台湾。この「生命の絆」を守り育て後に続く人に正しく継承していくことが、先達から託された崇高な使命です。私たち訪問団はこの「日台の魂の交流事業」の中に日台同胞の鎮魂をしっかりと位置づけ、今後も、この顕彰事業を風化させることなく、更に充実・拡大し、次世代に継承していきます。それはこの道こそが「護国の防人として散華された日台同胞の英霊」にお応えする務めであるからです。

以上の決意も新たに、わが国の近代史に比類なき勇気と献身を刻まれた英霊のご遺徳を偲び、御霊の平安を心より祈念し、慰霊の言葉といたします。

日台の生命の絆 死守せむと
吾 日本の一角に起つ

平成29年11月23日
民國106年
皇紀2677年

日華(台)親善友好慰霊訪問団
団長 小菅 亥三郎

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