第19次 潮音寺 祭文

『日華(台)親善友好慰霊訪問団を代表し、巴士海峡の海底深く眠られる二十万余柱の御霊の御前にて慎んで祭文を奏上いたします。』

台湾東南海岸は黒潮の流れによる波浪が激しく、しかも偏西風や台風の通路に当たり、古来、難所とされてきました。猫鼻頭から望む巴士海峡は、普段は紺碧の海の色が美しく、対岸の鵝鑾鼻灯台や墾丁海岸が夕日に赤く染まる情景は、恆春八景のひとつです。しかし、この千尋の海底深く、今もなお二十万余柱の同胞の魂魄が眠られていることを私たちは記憶に留めおかなければなりません。

この地域が、そもそもわが国・日本とご縁が結ばれるに至った契機は、明治四年の琉球島民の八瑶湾漂着でした。後に言われる牡丹社事件です。漂着民66名中54名が殺害され、後にこの事件の決着のあり方から明治6年清国に赴いた日本側全権副島種臣に対し、皇帝同治帝をして「化外の地」と言わしめた台湾は、朝鮮半島の帰属を巡って戦われた日清戦争の結果、わが国に割譲された明治28年4月17日より遡ること遥か24年も前にご縁が開始されていたのです。

爾来、147年間に及ぶ日台関係はこの時をもって起点としますが、明治28年から50年に及ぶ領台時代を経て今日に至る中で、私たちが忘れてはならないことは、日本統治時代の最後に戦われた大東亜戦争の最終局面である昭和19年から20年にかけ南進基地高雄軍港から出航した幾多数多のわが国の軍艦や輸送船が潜伏する米潜水艦や飛来する航空機の攻撃により撃沈されたことです。

その渦中で、巴士海峡を12日間も漂流の末、九死に一生を得た中嶋秀次氏は、昭和56年私財を投じ日台両国の戦没者慰霊を悲願として、ここに潮音寺を建立されました。しかし、その志も空しく氏の死後、この慰霊の寺が地元地権者の代替わりで予想もしない展開となりました。これも戦死者、戦没者の慰霊を遺族任せにして事足れりとしてきた、戦後わが国政府のあり方に大いなる要因があったのではないでしょうか。日本人として大変恥ずかしい思いが致します。

戦後判明したことですが漂着した亡骸は、ありがたいことに現地台湾の皆様の手によって手厚く葬られました。そして現在、潮音寺の広い寺域や寺の修復に関する管理一切は鍾佐榮氏を中心とする「潮音寺管理委員會」の皆様に委ねられています。しかも、これは全くの善意と好意のみによる自費活動として継続されています。一体、中朝韓を含む近隣諸国の戦後史でこのような行為が発起され、実行され、継続され、認知されたことがあったでしょうか。

「人は二度死ぬ」と言われています。一度は肉体の死、二度目はその存在と死さえも忘れさられた時です。私たち日本人は戦死者や戦没者を二度も死なせてはなりません。

私たちは、平成11年以来、台湾における原台湾人元日本兵軍人軍属戦没者、ならびに台湾各地に祀られる日本人の御霊の安らかならんことをお祈りしてまいりました。

半世紀に及ぶ日本統治が戦後72年の今日に至るまで脈々と生き続ける台湾。この「生命の絆」を守り育て後に続く人に正しく継承していくことが、先達から託された崇高な使命です。私たちはこの務めの中に巴士海峡に眠られる日台同胞の鎮魂をしっかりと位置づけ、今日の私たち日本人が民族としての自覚にめざめ誇りを高めていく契機にしていく所存です。

今後も、この顕彰事業を風化させることなく、更に充実・拡大し、「日台の魂の交流事業」として次世代に継承していきます。それはこの道こそが「護国の防人として巴士海峡に散華された日台同胞の英霊」にお応えする務めであるからです。

以上の決意も新たに、わが国の近代史に比類なき勇気と献身を刻まれた英霊のご遺徳を偲び、御霊の平安を心より祈念し、慰霊の言葉といたします。

日台の生命の絆 死守せむと
吾 日本の一角に起つ

平成29年11月24日
民國106年
皇紀2677年

日華(台)親善友好慰霊訪問団
団長 小菅 亥三郎

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