第21次 鎭安堂飛虎將軍廟 祭文

『日華(台)親善友好慰霊訪問団を代表し、飛虎将軍の御霊の御前にて慎んで祭文を奏上いたします。』

昭和19年10月12日、この日は朝から晴れていました。大東亜戦争の末期、米軍の台湾上陸が取り沙汰されている頃でした。西南太平洋に集結した米海軍機動部隊の空母から発艦したグラマンやカーチスP38が、毎日定刻に台湾の上空に飛来するため、地元は日常的に機銃掃射と爆撃の恐怖にさらされていました。

その日、午前10時頃、毎日聞き慣れた空襲警報のサイレンに、人々は普段と違う殺気に似たものを感じとっていました。いつもなら上空を軽く一周して去るのが日課でしたが、この日は地上を圧するように重々しい爆音を轟かせながら上空を旋回していました。突然、大地を揺るがす様な爆発音が鼓膜を震わせました。米空軍の本格的な爆撃が始まったのです。この時、上空では敵機来襲と同時に素早く離陸し迎撃の体制を整えた友軍機が一撃必殺の意気に燃え勇戦奮闘しましたが、衆寡敵せず、一機また一機と撃墜されていきました。

海軍飛行中尉杉浦茂峰の操縦する愛機も健闘よく敵を制しましたが、無念にも敵弾を受け尾翼より発火、爆発寸前の危機に瀕します。今はこれまで、と思った中尉は備え付けの落下傘を着けると、跳び降りるべく風防のカバーに手をかけて、何気なく地面を見た途端、ハッと身も凍るような戦慄に襲われます。何と真下は海尾寮という大部落なのです。「今跳び降りたら自分は助かるかもしれない。けれども何百戸という部落の家屋は焼かれるだろう。一旦火が着くと消火設備の乏しい農村では部落の全焼が目に見えるようだ」

咄嗟の間に判断した中尉は、素早く風防のカバーから手を引くと、再び操縦桿を握りしめ、機を西の方に向け、祈るような気持でスロットレバーを全開にし、碧い海原目がけて高空から火を噴いて突っ込んでいきました。

危うきに臨んで義を取る 徳は乾坤に輝いて 百姓を護る
壮烈仁を成す 恩は日月より昭かにして 萬民を祐ける

これは、廟の柱に記された對聯の言葉です。

明治15年1月4日に下賜された「陸海軍人ニ賜ハリタル敕諭」や昭和16年1月8日に示達された「戦陣訓」で皇軍教育を受けた皆様は、身を挺して義に赴き、戦死されました。その人道の犠牲は亜州の先覚であり、たとへその身は殞滅(いんめつ)しようとも、その志は決して朽ちることはありません。孔子曰く、仁を成すと。また孟子曰く、義を取ると。浩々たる乾坤は茲に正気を留めています。

私たちは、平成11年以来、台湾における原台湾人元日本兵軍人軍属戦没者、ならびに台湾各地に祀られる日本人の御霊の安らかならんことをお祈りしてまいりました。

半世紀に及ぶ日本統治が戦後74年の今日に至るまで脈々と生き続ける台湾。この「生命の絆」を守り育て後に続く人に正しく継承していくことが、先達から託された崇高な使命です。私たちはこの務めの中に日台同胞の鎮魂をしっかりと位置づけ、今日の私たち日本人が民族としての自覚にめざめ誇りを高めていく契機にしていく所存です。

今後も、この顕彰事業を風化させることなく、更に充実・拡大し、「日台の魂の交流事業」として次世代に継承していきます。それはこの道こそが「護国の防人として散華された日台同胞の英霊」にお応えする務めであるからです。

以上の決意も新たに、わが国の近代史に比類なき勇気と献身を刻まれた英霊のご遺徳を偲び、御霊の平安を心より祈念し、慰霊の言葉といたします。

日台の生命の絆 死守せむと
吾 日本の一角に起つ

令和元年11月23日
民國108年
皇紀2679年

日華(台)親善友好慰霊訪問団
団長代行 原田 泰宏

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