私達日本人はどのようにして英霊に向き合うことを求められているのだろうか

福田章枝

日本人講座顧問の小菅亥三郎氏は、平成29年に「終戦記念日護国神社家族参拝」を御自分の家族のみではなく「私たちとご一緒にご家族同伴で護国神社にお参り下さい」と提唱された。平成30年8月15日、私は初めて英霊を顕彰するため「終戦記念日護国神社家族参拝」に出席させていただいた。私は、平成29年度第19次日華(台)親善友好慰霊訪問団員として参加した時の行程において、今も海底に眠っている25万人ともいわれている軍人・軍属の御霊に向けて、バシー海峡で献花をしたとき英霊に感謝をしなければならないと強く決意した。私の故郷である鹿児島県日置市伊集院の墓地のすぐ近くにも護国神社がありその敷地内に大東亜戦争で散華された方々の名前が大きな記念碑に彫られている。これらの記念碑を見る時の私の気持ちもこれまでとは大きく変わってきた。

この「終戦記念日護国神社家族参拝(以下家族参拝)」において最も私の心を動かしたのは、昇殿参拝の後「直会」の席で、硫黄島で危うく散華されたかもしれないというご体験をお持ちの宮原泉氏が、私達に直接語って下さった御言葉であり、とても強く心を打たれた。宮原泉氏が日本に引き揚げてくる際に祖国日本の美しい島々を見た時の感動、戦っている時の「靖国で会おう」という戦友との約束など、短いスピーチの中で、黄金のような響きの御言葉をしっかりと聴いた。私は宮原泉氏の御言葉を生涯忘れないと思う。このように、先の大東亜戦争のその時の軍人であった方に直にお会いして、本当に英霊が日本国を護って下さったからこそ現在の日本があることを、改めて感謝の気持ちをもって素直にお聞きすることができた。

この時ふっと、現参議院議員の青山繁晴氏が現安倍総理大臣に硫黄島の英霊のことを強烈にお願いされ、その後、安倍総理大臣も硫黄島に行き英霊に哀悼の意を表され、戦没者のその後の遺骨収集が法整備されたことを思い出した。米国軍は我が国の硫黄島を占領した時、日本の英霊が眠っているその上に滑走路を造った。硫黄島が日本に返還された時、日本はその滑走路を英霊が眠る場所からずらしたが、遺骨が滑走路の下に眠っていることを思うと、海上自衛隊隊員は非常に苦しみながら職務についたと青山繁晴氏によって知った。私達日本人の霊性は、このように、どちらかというとまだ幾何かのキリスト教国といわれている米国人とは違うと感じている。

この家族参拝ということについて私は大きな希望を持っている。この日は家族参拝ということから、まだ生まれて間もない乳児から高校生、壮年層、高齢者まで幅広い年齢層で構成された参加者であった。多くの組織分野でもいえることであるが、特に子供たちがその組織の構成員として存在するということは、その組織における成長の要でもある。常々、私達は日本人講座の学びにおいて、英霊を二度死なせることは絶対に避けなければならないと教えられている。このことを避ける為には親がきちんと教えていくことが求められる。

先に述べた「直会」の席で、終戦記念日に家族で護国神社にお参りをする目的、大東亜戦争終結ノ詔書、五箇條の御誓文、米英ニ對スル宣戦ノ詔書、教育ニ関スル勅語の誦読。それに引き続き抜刀隊、元寇、われは海の子、故郷を全員で合唱した。私は、この抜刀隊の歌はこれまで触れることは殆どなかったが、故郷の鹿児島の桜島を思い浮かべながら西南の役で敗れ城山で自決した偉人西郷隆盛に思いを馳せながら歌った。また、私はこれまで終戦記念日のニュースの中に昭和天皇の玉音放送を聴いていたのはこの大東亜戦争終結ノ詔書だったのだと改めて思い知った。

私の子供達は三十路を過ぎやがて不惑に届こうとしている。私はこれまで子供達にいったい何を伝えてきたのかと自分に問い、何か大切なことが抜け落ちていると思った。がしかし、今からでも遅くはないと思い直している。私はこの家族参拝で体験したことをもとに、まずは自分の子供や孫達に自分の先祖の供養だけではなく、英霊を追悼し感謝することを形から伝えていきたい。

参拝者の声(感想文)(全39件)

敬称略50音順。但し、家族は「長幼の序」に従った。

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