国語伝習所に配属された第1回講習員の経歴
①台北国語伝習所 | 浅井政次郎(転職) | 加藤元右衛門(校長) | 堀正次郎(校長) | 戸倉広雅(教師) |
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②基隆国語伝習所 | 大島丑三郎(病死) | 加賀見五郎七(不詳) | 津田政次郎(不詳) | |
③宜蘭国語伝習所 | 三屋大五郎(教師) | 美和元一(病死) | ||
④淡水国語伝習所 | 中堂謙吉(校長) | 伊原太郎(遭難死亡) | ||
⑤新竹国語伝習所 | 赤松三代吉(不詳) | 早間 恒(不詳) | 相沢源太夫(不詳) | |
⑥苗栗国語伝習所 | 壱岐休太郎(田園生活) | 富田仙太郎(病死) | ||
⑦台中国語伝習所 | 渡辺高市(病死) | 林元三郎(病死) | 丸山徳蔵(不詳) | 山口吉治(遭難死亡) |
⑧鹿港国語伝習所 | 益田精次郎(転職) | 江田駒次郎(不詳) | ||
⑨雲林国語伝習所 | 堤貞廉(不詳) | 鈴形悌三郎(不詳) | ||
⑩嘉義国語伝習所 | 笠井源作(校長) | 多良尾光利(不詳) | 花田大六(転職) | |
⑪台南国語伝習所 | 増田龍作(病死) | 島村和四郎(不詳) | 坂根十二郎(校長) | 松本恒徳(不詳) |
⑫鳳山国語伝習所 | 小菅松内(不詳) | 菅野赫次(病死) | 宮本一学(転職) | |
⑬恒春国語伝習所 | 藍原新二(病死) | 中山重治(病死) | ||
⑭澎湖島国語伝習所 | 斉藤典治(校長) | 富岡鐐太郎(病死) | ||
⑮国語学校附属学校 | 高木平太郎(病死) | 芝山豊平(転職) | 前田孟雄(病死) | 新家鶴七郎(田園生活) |
⑯国語学校書記 | 滋野邦次郎(不詳) | 須田 襄(病死) | 井上武之助(不詳) |
※不詳を除き病死と遭難が計15名で全員の三分の一を占めていることから、教育環境がいかに劣悪であったかを知ることができる。
※台湾では統治当初からの20年の間、「土匪」と目された台湾人による武装抗日蜂起が途絶えることがなかったため、芝山巌学堂で6人の教師が命を落としたことからもわかるように台湾に行き、教育活動に従事することは命の危険を覚悟した上のことだった。第1回講習生であった加藤元右衛門は渡台する前に次のように述べている。
「当時台湾土匪征伐に来られた近衛師団は、驚くばかり多数の病死者を出したので、台湾は瘴烟毒霧に充ち満ちた島で、その上土匪が出没して甚だ危険であるという評判で、命の惜しくない者は台湾へ行けと言われてゐた。家族との「死別を兼ねたる生別」を覚悟し、「護身の長刀を左手に提げ」、「心中乱れて麻の如し」というように故郷を後にして台湾に向った。」